2008年6月14日土曜日

平安神宮。。。

 NIKKEI NET4月18日付記事を取り上げる。
 エッセイストの麻生圭子氏が投稿しているコラム記事で、NIKKEI NETの「生活・グルメ」のコーナーで取り上げられているものである。
 記事タイトルは、「平安神宮としだれ桜と」である。記事タイトルにリンクを張っておくので、興味のある方はチェックしてみるとよい。
 写真が豊富に取り入れられており、「京都の春」を楽しむこともできると思う。。。

 コラム記事のテーマは、「毎春、恒例の平安神宮の『紅しだれコンサート』」となっているが、興味をもったのは、平安神宮の誕生(創建)にまつわる話の部分である。 学生時代、京都で過ごし、平安神宮も何度となく訪れた場所である。
 しかし、残念ながら「平安神宮の創建はいつか?」と問われると、「???」となってしまう。。。
 記事によると、平安神宮は創建100年の神社である由。 平安遷都1100年を記念して「当時、維新後の京都というのは、何もかも東京に奪われ、都市としての拠り所を失ってしまっていた。この神宮は、一千年以上の長きに亘って、この国の都であり続けた、この都市への大モニュメント。京都市がその威信をかけて、行なった大事業であった」とのこと。。。

 学生時代、気にも留めていなかった「創建にまつわる話」は、残念ながら、私にとっては初耳ということになる??? また、谷崎潤一郎が平安神宮の枝垂桜と同種の枝垂桜を、自分の予定していた法然院の墓所に植えたというくだりがあり、その点にも興味をもった次第である。
 写真も引用させてもらいながら、記事の一部を引用しておく。

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 記事引用
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 そのせいか、平安神宮について、改めて関心を持つこととなりました。
 平安神宮、名前は平安ですが、創建は最近の、明治28年です。  遷都1100年を記念して、創建されたから、平安というんですね。
 当時、維新後の京都というのは、何もかも東京に奪われ、都市としての拠り所を失ってしまっていた。この神宮は、一千年以上の長きに亘って、この国の都であり続けた、この都市への大モニュメント。京都市がその威信をかけて、行なった大事業でした。琵琶湖疏水などもそうですね。それが成功し、そこから京都は古都として、学術、文化、産業を柱に、再構築されていくわけです。
 ですから京都人にとっても、当時はずいぶんと思い入れのある神社だったのではないでしょうか。ところが今は、観光客には人気ですが、京都人には……それほどでもないような気がします。

 再構築後の、現代の(たいがいの)京都人は、東京なんてなんぼのもん、文化と歴史の都は今でも京都、と思っていますから、拠り所として、不要になっちゃったんでしょうか。ま、祇園(八坂神社)さんとか愛宕(神社)さんとか、昔から暮らしに密着してきた神社が、ほかにもたくさんありますからね。
 私は観光住人ですから、移り住んでから、すぐに拝観に行きましたよ。でも、前述以上のことを調べようという気持ちには至らなかった。やはりその理由には、創建100年という歴史の浅さがあったような気がします。
 京都で明治以降のものなんて、新参者でしょう。
 それが変わったのは、谷崎潤一郎の『細雪』を読み返してからです。
 谷崎は小説で描くだけでなく、晩年、熱海に越してからも、平安神宮の桜を見に上洛するほど、ここの紅しだれを愛していたといいます。生前、自分で準備した法然院の墓にも、同じしだれ桜を植えました。
闇を覆う、しだれ桜の群れ それを知ったなら、これはもう、見に行かいでか、ですよ。満開の頃に、お墓の紅しだれも見に行きました。そこまでしたなら、平安神宮の神苑の紅しだれ桜でしょう。遅ればせながら、行きました。それが5年くらい前でした。
 散りかけていたのですが、それでも頭上漫々、脚下漫々。見事でした。
 でも、そのときは正直な話、そこまで琴線にふれなかった――。
 谷崎というのは、陰影礼讃を書きながらも、やはりはなやかなものが好きだったんだなあ、などと思ったものでした。もともと私は、桜なら、八重より一重のほうが、色は紅より白のほうが好きなんです。
 けれど神苑の広大さ、植物の種類の多さ、眺めの美しさには驚きました。

 …(後略)…
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 Written by T. Satoh on 14th Jun., 2008

藤の花を求めて

 NIKKEI NET生活・グルメコーナーの記事を取り上げる。コーナーの名称は、「麻生圭子の茶碗眼鏡で見た京都」である。
 5月2日付記事で、タイトルは「藤の花を求めて」である。
 記事タイトルにリンクを張っておくので、興味のある方はチェックしてみるとよい。
 記事は写真が豊富に取り入れられており、写真を追うだけでも楽しめるかもしれない。。。

 記事では、「それに私たち以外、誰もいなかったんですよ。桜の頃とは大違いです」と触れられており、人も少なくゆったりと楽しめる様子が伺える。
 30余年も昔のことであるが、京都時代に、法然院の紅葉が一日一日変化していくのを人影の少ない環境の中で楽しんだことがあるが、「藤の花」も同じように楽しめるのかもしれない。。。
 記事を引用しておく。
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 記事引用
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 3月の末、醍醐寺で花見をしたときに、気になっていた三宝院、憲深林苑の藤棚。例年、5月のはじめに咲くと聞き、連休のはじまりの頃、これを見に行くことにしました。源氏物語の藤壷の話を読んだからかもしれません。今年こそ頭上にかかる雲のような藤の花が見たい、そんな想いにかられたのです。
 藤は平安の頃の貴族たちにもっとも愛された花のひとつとか。

 葵祭の際の斎王代の御輿(およよ)の庇にもこれが飾られています。夜明け前の一瞬のような色合いは、何とも言えぬ上品さです。

 …(中略)…

 醍醐寺は、笠取山(醍醐山)全体がお寺になっている、真言宗醍醐派の総本山。今でもその広さは10万坪とも15万坪ともいわれています。創建は平安時代の874 年。醍醐、朱雀、村上の3代の天皇の帰依により、上醍醐から下醍醐までの壮大なる大伽藍が完成したのだそうです。

 …(中略)…

 ちょうどひと月ぶりの憲深林苑。しだれ桜はすべて葉桜になっていました。
醍醐寺 理性院 だらり藤の花 その一角に、淡く浮かび上がる藤の色。しだれ桜の巨大さに比べると、思っていたより、小ぶりです。まるで舞妓さんの髪飾り。といっても花の房、長いものは30センチはありそうです。藤棚の下に入り込むと、豆科の植物の匂い、若々しい香り。透き間から見る若草色の庭もまた愛らしく、まもなく訪れる立夏の種を見つけたような気分になりました。

 …(中略)…

 ちょうど特別公開の期間中で、障壁画を見ることができました。土佐光起、光成父子の作だそうですが、私が興味深かったのは、その絵に描かれていたもの、そしてその理由でした。
 藤の花の額縁から氷室の池を望む「想像上のものではなく、畿内の、四季折々の名所が写されていますが、これは幕府の許可なしでは外出もままならなかった明正天皇を、お慰めするために描かれたと言われています」
 彼女もまた悲劇のヒロインだったのですね。

 …(後略)…
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 Written by T. Satoh on 14th Jun., 2008

御蔭祭

 NIKKEI NET生活・グルメコーナーの記事を取り上げる。コーナーの名称は、「麻生圭子の茶碗眼鏡で見た京都」である。
 5月23日付記事で、タイトルは「御蔭祭」である。
 記事タイトルにリンクを張っておくので、興味のある方はチェックしてみるとよい。
 麻生氏は、月に二回ほどのペースで記事を投稿しており、私もこの記事を楽しみにしている。
 その時々の京都の顔を紹介してくれているからである。

 京都は学生時代を過ごした街、現在神戸に居住していることもあり、時に無性に訪れてみたくなることもある。
 そのようなときに、麻生氏のこの記事に触れ、京都が再認識されるようで、ほっとする。

 今回の記事は、葵祭りの一連の行事の一環として実施される「御蔭祭」に関するものである。
 この葵祭りも5月15日1日だけのことではないかと、勝手に考えていたが、記事によると5月1日から18日にかけて、「いくつもの神事、祭」がとりおこなわれるとのこと。。。
 私にとっては、残念ながら初耳ということになってしまう。。。
 記事は写真が豊富に取り入れられており、写真を追うだけでも楽しめるもので、引用しておく。    

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 記事引用
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 …(前段略)…

 御蔭祭 御蔭山を下りる行列 京都の数ある祭の中で、私がいちばん好きなのは、葵祭かもしれません。
 えーっ? 祇園祭は? と言われるかもしれませんが、うーん、暑いでしょ、それに山や鉾、満艦飾でしょ、大きいでしょ、にぎやかでしょ。
 好みは人それぞれ、ということでしょうか。私は静かな祭のほうが好みなのです。
 それと下鴨神社が好きなんですね。元氏子ですから。
 上賀茂神社も含め、この二つの賀茂社は、社殿や森が本当に美しい……。
 日本の美、ここにありです。外国から友人が来たなら、そしてその人がフランス人やイギリス人なら、私はこの二つの神社に真っ先に案内すると思います。そのときが葵祭なら、さらに言うことはありません。葵祭 十二単の斎王代 日本の色彩のルーツがここにあるような気がするからです。
 葵祭は新暦5月15日に行なわれる祭、と言われますが、祇園祭がそうであるように、祭はこの1日だけではありません。
 毎年、下鴨神社さん(私も京都人のように、神社にさんをつけるようになってしまいました)から、この祭の諸儀日程のご案内をいただくのですが、今年もそれには1日から18日まで、いくつもの神事、祭が書かれてありました。
 たとえば流鏑馬神事、たとえば献茶祭、献花祭、献香祭……、両社隔年では斎王代の御禊もあります。御蔭祭 御蔭神社の鳥居 その中で、15日とともに太字になっているのが、12日の御蔭祭です。

 葵祭(賀茂祭)に先がけて行なわれる、重要な祭なのですが、今年、はじめて、この御蔭祭を見ることができました。すべてにうっとりする私でした。 御蔭祭とは何ぞや。これが面白いんですよ。
 私が思うに、神さまの若返りの儀式でしょうか。年に一度の葵祭ですから、いちばん元気な神さまをお迎えしようということなんでしょうね。御蔭山という東山三十六峰第二の山で、新しく生まれた荒御魂を本宮に持ち帰り、もともとおられる神さまの和御魂と合体させ、甦っていただくお祭りなのです。
 ちなみに下鴨神社(賀茂御祖神社)のご祭神は、賀茂建角身命と玉依媛命の二柱なので、荒御魂も二つです。
  …(後略)…
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 Written by Tatsuro Satoh on 12th Jun., 2008




新緑の都大路に源氏絵巻

 京都新聞のWEB SITE 5月15日の記事を取り上げる。
 タイトルは、「新緑の都大路に源氏絵巻」である。記事タイトルにリンクを張っておくので、興味のある方はチェックしてみるとよい。

 6月ももう下旬。 今年も葵祭りが終わり、7月の祇園祭へと年間サイクルが移っていく。年齢を重ねてきているということがあるためか、時の流れの速さを痛感する。
 京都の三大祭もいくチャンスがなくなって久しい。。。ビジネスに追われ(???)、時間のゆとりがないということになってしますが、いつか時間的なゆとりを作り、のんびりと眺めてみたいものである。
 記事を引用しておく。

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  記事引用
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 千年紀を迎えた源氏物語にも描かれた葵祭が15日、京都市内で繰り広げられた。フタバアオイを挿し、王朝装束に身を包んだ約500人の行列が、平安時代の優雅な雰囲気を醸し、新緑映える都大路を進んだ。

 京都三大祭りの一つで、上賀茂、下鴨両神社の例祭。正式に は賀茂祭といい、起源は1400年前にさかのぼる。源氏物語では、車争いの場面が有名。道中の行列は「路頭の儀」、両神社での神事は「社頭の儀」と呼ばれる。 午前10時半、初夏の陽気の中を、本列(近衛使代列)が玉砂利を踏みしめて京都御所(京都市上京区)を出た。狩衣(かりぎぬ)姿の肝煎(きもいり)を先頭に、紅色の水干(すいかん)姿の牛童(うしわらわ)が綱を引く牛車(ぎっしゃ)が車輪をきしませて進んだ。

 斎王代列(女人列)が続いた。あでやかな十二単(ひとえ)をまとったヒロインの斎王代が乗った腰輿(およよ)が近づくと、沿道を埋めた2万6800人(午前11時、京都府警調べ)が見つめた。
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 Written by T. Satoh on 14th Jun., 2008

鴨川納涼床

 NIKKEI NET 6月6日付記事を取り上げる。
 記事は、麻生圭子氏により投稿されているものである。
 記事タイトルは、「鴨川納涼床」である。記事の中に、多くの写真が取り入れられており、記事は、写真を追うだけでも楽しめる。

 興味のある方は訪れてみると良い。
 そういえば、6月も既に半ばにさしかかり、京都もこれから梅雨のシーズンから夏に向かう。
 海外から来ている人たちにとり、苦手なシーズンかもしれない。しかし、これも日本の風物詩のひとつである。

 この季節になると、鴨川沿いの納涼床がそこかしこに見ることができる。
 記事によると、最近では観光客を目当てにしてか、「最近は薫風の5月から、9月の名残の季節までの5カ月間。鴨川の西岸、二条通から五条通の料理屋さんの多くは、奥に納涼床という、夏の座敷を設置します」とのこと。
 商魂のたくましさを感じる。。。
 記事の一部を引用しておく。

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 記事引用
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 京都の夏の風物詩のひとつが、鴨川の納涼床です。
 夏、京都に行ったなら、「床」(ゆか)でごはんを食べたいと思う人は多いのではないかと思います。

 昔は床開きも、衣替えと同じように6月からだったようですが、温暖化や観光的なニーズもあるのでしょうか。最近は薫風の5月から、9月の名残の季節までの5カ月間。鴨川の西岸、二条通から五条通の料理屋さんの多くは、奥に納涼床という、夏の座敷を設置します。
 鴨川は、床が出るところは、よーく見ると、西にもう一本、浅く小さな川が、お付きの者のように、そっと流れているのがわかります。これが禊(みそそぎ)川。

 治水のために、大正初期、作られた川です。水量を調節するためなんでしょうね。
 この上、禊川を跨ぐような形で、現在の納涼床は出されています。貴船のような床几形式とは異なり、高床形式です。
 昔は床几形式も出せたらしく、鴨川の橋桁の下にびっしり並ぶ床を、写真で見たことがあります。手や足を川の水に浸すこともできたようです。

 京都は盆地ですから、夏は暑いです。そして京都人は暑がりです。昔から暑いのなら、遺伝子的には、それに慣れてもいいようなものを、京都人、何かといえば、この暑さに文句をいう。
 「暑い、暑い、かなん、かなん」。言葉を強調するときに、京都人、2回続けるのが癖ですよ。「すごく暑い」ではなく「暑い、暑い」。

 それはおいといて。ここが面白いとこだなと思うんですが、京都人は、その暑さを逆手にとって楽しんだり、工夫を凝らして、そこに独自の文化を作りあげるのが上手です。たぶんこれにかけては、日本で一番じゃないでしょうか。 江戸っ子なら、「てやんでい、こんなに暑くっちゃ、やってらんねえよ」とばかりに、逃げるか、開き直るか、ヤケになるか、でしょう。私の勝手なイメージですけど。
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 Written by Tatsuro Satoh on 14th June., 2008